小学生の時、私は担任だった50代のおばさん教師に
花瓶を割ったという濡れ衣を着せられて、
こちらの言い分は聞いてもらえず、
一方的に放課後に教室に数時間居残りさせられた事があります。
ただ一人、帰ってはダメと言われて放置され、
職員室に行って、何か言ってもシカトされて、
教室に戻されました。
当時の私は非常に臆病な性格で、
どちらかというといじめられっ子な方でした。
もし、これが今の自分であれば、
濡れ衣なのだから、こんなクソゴミ教師の言う事など聞かず、
無視して家に帰っているでしょう。
しかし、その真面目な性格を逆手に取って、
いいようにこの教師の自己満足の道具にされたと言えます。
私はそれから20年近く経っても、
ずっとこの教師の事を憎んでいました。
(と言っても、ずっとその事を考えているわけではなく、思い出すと、強烈な怒りが込み上げてくる感じです。)
もし今会う事があるなら、同じように監禁して、
つばを吐きかけて、生卵を投げつけて、
陵辱の限りを尽くしてやりたいとすら思っていたほど、
心底恨んでいました。
しかし、これを読んだあなたは、もしかしたら、
「え、そこまで恨む事か?大した事なくね?」って思ったかもしれません。
そうなのです。これがポイントなのです。
それが許せない相手、
デスノートがあったら、真っ先に書き込んでやりたくなるような、
クソみたいな奴への恨みで怒りに包まれて無駄に辛い人生から開放される魔法の方法なのです。
タグを付けているのは、自分自身
例えば、私は中学生の頃に、暴力を振るう男性教師がいました。
私の部活の顧問がその暴力教師で、
私は部長だったので、私がたとえ真面目に練習していても、
周りが練習せず、遊んでいた所を目撃されれば、
「なんでちゃんとやらせねぇんだ!」と、思い切りグーで殴られつつ、
その殴られた頭に意識を向けた途端、ローキックまで食らうという、
見事なコンボを食らって、
足が痛くて、湿布を貼って、
しばらく足の痛みが取れない状態なんて事もありました。
じゃあ、この暴力教師の事を恨んだかというと、
実は自分でも不思議なくらい、なんとも思っていないのです。
「ああ、そんな事もあったなぁ。懐かしいなぁ」で、終わり。
今会っても、きっと普通に「お久しぶりです~」で普通に接する事が出来て、
怒りも込み上げてこないでしょう。
一方は、教室に居残りさせられただけなのに、命を奪ってやりたい位恨んでいる。
一方は、明らかな暴力を振るってきたのに、別に恨んでない。
とっても、不思議でしょ?
なぜそうなるかというと、人間は全てタグ付けで良い悪いを決めているからなのです。
例えば、私はその居残りさせられた思い出に
「一生の傷になる位のとても傷ついた出来事」というタグをある時に付けたのです。
そういうタグと共に何度も何度も思い出すうちに、
「あの教師は人生史上最低最悪のモンスターだったんだ。」という事に自分の中になったのです。
逆に、暴力を振るわれた出来事にも、その当時は
「教育委員会に訴えて、いつかクビにしてやる」っていうタグを付けていたと思います(笑)。
でも、いつの間にか、その出来事には、
「どうでもいい出来事」というタグを私は付け直していたのです。
それは、本当に辛い出来事なのか?
例えば、なぜ私が、濡れ衣を着せられて教室に居残りさせられた事を、まるで私の人生を台無しにした出来事のように思っていて、その教師の事をぶちのめしてやりたい位、20年も恨んでいたかというと、
それは、「私の人生に強烈な爪痕を残した」とか「私の人格を壊すほどの強烈な出来事だった」「私の大事な何かを壊した出来事だった」のようなタグ付けをしていたから、
その教師の事を極悪人を見る目のような目で見ていたわけです。
しかし、見る人から見れば、「ただ、居残りさせられただけじゃん」なのです。
濡れ衣を着せられたのも「運が悪かっただけ」とか、「そんな事も生きてればあるよね」とか、そういうタグを付けていれば、どうでもよくなります。
その「濡れ衣着せられて、居残りさせられた」という思い出に、
「絶対に許してはいけない大事件」とか「私の心に一生の傷を負わせた」とか
そういうタグづけをしているのは、紛れもなく自分なのです。
そして、そのタグを何度も何度も思い出せば思い出すほど、
刷り込みが働いて、自分の中で「あの事件は私を苦しめた最低最悪の事件で、あいつは最低最悪のモンスター」という思い込みが強くなり、それが真実になっていくわけです。
タレントさんに対する印象もすべてタグ付けで決まる
例えば、
オカマっぽい格好をした芸能人(Aさんとしましょう)が、
最初にテレビに出始めた時は「おかまみたいな変な奴」というタグが付くので、
彼が何を発言しても、「なんだこのオカマ野郎は」としか視聴者は感じません。
しかし、段々とテレビに何度も出ているうちに、人気者になると、
今度は「カリスマ、すごい人」というタグが付きます。
すると、同じ発言をしてても、今度は「良い事言うなぁ~」に変わります。
そして、今度、そのAさんが、性格が悪いというVTRが作られて、
ネットニュースなどで「批判殺到で炎上」などと出ると、
今度は「性格悪い人」というタグが付くので、
同じ発言をしても「お前が言うなよ!」に変わるわけです。
そういうふうに、我々は常に人にタグ付けをしていて、
その色眼鏡で人を判断しています。
私の場合も、その教師に対して「曲がった考え方を持った異常者、モンスター、最低人間」というタグをずっと付けていたので、
全ての彼女の行動が「悪」にしか見えなくなり、
その極悪人にされた事なので、「最悪の事件」というタグが付いたわけです。
なので、その色眼鏡、タグを外す事で、
「どうでもいい事」「大した事ではなかった」に変える事が出来ます。
タグ付け変更は早けば早い方がいい
このタグ付けは、タグ付けを変えるタイミングが早ければ早いほど、簡単に変えられます。
逆に長年「悪いタグ」を付け続けていた場合、
それは思い返すたびに強くなっていく(真実化する)ので、
長年くっつけてたら固着して剥がれなくなってしまったシールのように、
剥がすのに苦労する時もあります。
しかし、大事なのは、思い出すたびに、「大した事ではなかった」「どうでもいい出来事だった」という新しいタグを付け直す事です。
そのタグを何度も何度も呼び出す事によって、今度はそっちが真実化し、本当にどうでもいい出来事だったになってきます。
思い出してしまった時に、ぞわーっと怒りや恐怖などがやってきたら、
「本当にそんな大事だったか?」と冷静に考え直してみてください。
そして、「言うほど大した事ではなかったよな」と新しいタグを付けてください。
人間は重要だと感じる記憶ほど、明確にしっかり長年保存します。
逆に重要じゃないと思った出来事は忘れてしまいます。
あなたが重要だと思えば思うほど、その記憶は頻繁に出てきて、頻繁にあなたを苦しめ、
苦しめば苦しむほど、また重要なんだと認識して、さらに記憶が強く固着してしまいます。
なので、「どうでもいい出来事ですよ」というタグを付ける事で、
どうでも良くなっていくので、思い出す回数は減りますし、苦しむ必要もなくなっていきます。
そうなると、辛かった思い出が、辛かったではなくなります。
別の角度からの乗り越え方
また、別の角度からも、その思い出をクリーニングしていきましょう。
例えば、その嫌だというタグを付けていた思い出のおかげで、
今の自分はそれを乗り越えて強くなれたと定義すると良いです。
私も理不尽な目にあった事は沢山ありますが、
それを乗り越えて今でも生きています。
今でも生きている。それがすごい事なのです。
あんな事、こんな事あったけど、でも今もちゃんと生きてるよな。乗り越えられたよな。
そんな俺って/私ってすごいよなぁ。強くなったなぁ。。
そういうふうに考えましょう。
結局、過去は過去なのです。大事なのは、過去ではなく今なのです。
今、その出来事を乗り越えて生きてる自分は強い。私は強い。私はすごい。
それを自覚してください。
まとめ
これから、起こる出来事に対しても、
結局、それが嫌な思い出になるかどうかは、自分のタグ付け次第です。
誰かに怒られたとしても、
「こいつは感情を発散させてるだけだ」と思って、大した事ではないと思うか、
「私って本当にダメなんだ。もう死にたい」っていうタグを付けて、自分を苦しめるか、
「よし、今日の出来事を教訓に次に活かそう。成長してるぞ!」って思うか、
どう一つ一つの出来事を捉えるかは、あなた次第なのです。
一番自分にとって楽に生きれるタグ、良い人生になるタグを付けていくと、
どんどん生きるのが楽になって、どんどん自分を強くしていく事も出来ますよ。
PS.
小学生の頃、帰り道に突然後ろから、複数の友達にドンと押されて、
私は顔面を地面に打ち付け、その時に、前歯がほんの0.5mmほど、欠けてしまいました。
私はその事に全く気付いておらず、どうでもいいやと思っていたのですが、
その日母が、「ちょっと歯が欠けちゃったわね、残念ね」と言ったのを聞いて、
「え、歯が欠けたんだ。残念なんだ」というタグを付けてしまい、
その出来事がどうでも良かったのに、辛い出来事だったと思うようになってた時期がありました。
正直、今、歯を見返しても、全くどこがその時に欠けたのか分かりませんし、
母以外の誰かに歯が欠けていると思われた事すらないほど、本当に微細な事です。
じーっと間近、それこそキスしてしまうくらい近寄っても、もともとの歯の形を知っていないと分からないような小さな事を気にするか、気にしないかを決めるのは、自分自身なのです。
結局、自分に起きている事を、大事にするか、気にするほどの事でもないとするかは、
本当に自分次第なのです。
それがたとえ、虐待、レイプ、五体不満足になるような出来事であったとしても、
それにどういうタグを付け、どう定義するかは、本人次第なのです。